「ミツルくん、それは違うよ!」
(火野映司 『オーズ・電王・オールライダー・レッツゴー仮面ライダー』に登場)
「仮面ライダー・本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは世界征服を企む
悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ」
1971年の「仮面ライダー」では主題歌の最後に、こんなナレーションが流れていました。
でも、子供の頃に「違和感を感じていた」という人がいます。
なぜ、仮面ライダーは「正義のため」ではなく「人間の自由のため」に戦うのだろうか、と疑問だったそうです。
言われてみれば、僕も同じような感想を漠然とですが抱いていました。
子どもにとって「自由」とは、放課後や夏休みのような「好きに過ごせる時間」のことだったりします。
「自由」には「わがまま」というイメージもあって、「仮面ライダーが命がけで守るような価値」というイメージではなかったように思います。
でも、2011年に公開された映画『オーズ・電王・オールライダー・レッツゴー仮面ライダー』を、まだ幼かった息子たちと一緒に映画館で観て、仮面ライダーがなぜ「自由のため」に戦うのか、僕は急に納得できたのです。
映画のあらすじを紹介しましょう。
電車型のタイムマシンに乗って、怪人を退治していた「仮面ライダー電王」は、「仮面ライダーオーズ」と出会い、いっしょに1971年の日本に行き、怪人を倒します。1971年といえば、ちょうど仮面ライダー1号・2号が悪の組織「ショッカー」と戦っていた時代でした。ところが、その戦いの影響で偶然、高度な技術がショッカーの手に渡ってしまったのです。
そのために歴史が変わり、2011年の現在日本に戻った火野映司=仮面ライダーオーズは、とんでもない光景を目にします。
スラムのような場所に、みすぼらしい人々が暮らしています。子供たちも殺伐としていて、映司から金目の物を奪おうとするのです。そこにやってきた警察官らは、泥棒をつかまえるどころか、居丈高な態度で映司を反抗分子と決めつけ、いきなり殴りつけます。じつは、警官の姿をしている者たちの正体は、ショッカーの怪人や戦闘員たちなのでした。
ショッカー警察から逃げ、子供たち(ミツルやナオキ)と仲良くなった映司は、この世界のほとんどがショッカーに支配されていることを知ります。
本来の歴史ではショッカーを倒したはずのライダー1号・2号はショッカーの強力怪人に敗れて捕らえられ、洗脳処置を受けて「悪のライダー」となってしまったのです。だから、それ以後の昭和ライダーたち、すなわちV3もライダーマンもXもアマゾンもストロンガーもいない。
街には「優秀な者が支配する世界…ショッカーの描く素晴らしい未来」などの看板が立ち並び、日本は完全にショッカーに制圧されています。ミツルたちが学校に行かないのは、学校とはショッカーに選ばれたエリートだけが行けるところだから。国民は「ショッカーに選ばれた一握りのエリート」と、「大多数のクズ」に分けられています。
子供向け映画とは思えない、絶望的状況です。
これは、善良な人々が自由を奪われた恐怖の独裁社会。
「自由」がなかったら、こんな世の中になってしまうのです。
さて、しつこく追ってきたショッカー警察に子供らの1人が捕まってしまいました。
そのとき、ミツルは仲間を見捨てて逃げようとします。
「助けないのか?」と聞く映司。
ミツルは、「ショッカー警察に歯向かってもどうせ勝てない。弱い奴は見捨てるしかない。いつか、あいつらよりも悪くなって、強くなって、復讐してやるよ」。
「ミツルくん、それは違うよ!」。映司は言い、圧倒的多数の敵を前に、ただ一人、仮面ライダーオーズに変身します。
オーズは、人質の子を奪還し、大いに奮戦しますが、多勢に無勢、やがて叩きのめされ、変身も解けてしまいました。それでもあきらめず、立ち上がろうとする映司。いったいどうなるのか!?
(このあと、続きが気になる方のために映画のネタバレをします。でも、すごくいい映画なので、できればぜひ、映画をご鑑賞ください。)
映画ではこの後、ライダー電王がオーズたちを助けます。そして、あんなことや、こんなことがあって、激アツの展開のはてに、ついにライダー1号・2号の洗脳が解かれ、正義のライダーたちが復活します。
「ショッカーを倒すまでは、仮面ライダーは死なん!」
戦え、仮面ライダー。人間の自由のために!